対鷗台公園
アップデート:2021/12/24
対鷗台公園、ここには明治天皇にゆかりの深い対鷗荘という飲食店があり観光客がたくさん来ていた所です。
公園内には歴史的な碑がたくさん。
細長い公園を散歩しながら歴史を感じます。
ここに“対鷗荘”があった。
戦前は皇族や、多くの観光客などが訪れていましたが、戦後は飲食店となり、昭和六十三年(一九八八)年、建物の老朽化と開発のため取り壊されてました。その際、復元模型が作られ、現在は、旧多摩聖跡記念館に展示しています。
対鷗荘はこんな感じ
明治天皇行幸所対鷗荘碑
小野小町歌碑
彼女が父を訪ねてみちのくに行く途中に、武蔵野の向ノ岡を詠んだものと伝えられています。
武蔵野の向の岡の草 なれば 根も尋ねても 哀れとぞ 思ふ」(書き下し文)
この歴史がある公園の遊具は新しめのポップな複合遊具。
昔もいい、今もいいと時間の流れを体感する対鷗台公園です。
対鷗台公園の由来について
この公園のある連光寺一帯は向ノ岡と呼ばれ、明治天皇が兎狩や鮎漁に訪れた地です。明治天皇の行幸を記念して、昭和5年(1930)には現在の都立桜ヶ丘公園内に多摩聖跡記念館が建設され、その前年に明治天皇にゆかりの深い建物として隅田川河畔の橋場(台東区)にあった対鷗荘がこの地に移築されました。
対鷗荘は、幕末から明治の有力政治家であった三条実美が明治6年(1873)に建てた別荘で、岩倉具視から寄贈された茶室「松華洞」もありました。
明治天皇は、「征韓論」をめぐる政争で病に倒れた三条実美を見舞いに橋場の対鷗荘を訪れています。昭和4年(1929)にこの地に移築された対鷗荘には、戦前に多くの観光客が訪れましたが、戦後になると飲食店として利用され、昭和63年(1988)に土地開発のため取り壊されました。現在は復元模型が作られ、旧多摩聖跡記念館で見ることができます。「対鷗台公園」の名称は、対鷗荘のあった高台という意味で付けられました。
また、この公園から東側、現在の向ノ岡大橋に向かう道路沿いには、古歌に詠まれた向ノ岡として、江戸時代の末期には桜の木が多数植えられました。
対照からしょうわ初期にかけては、草競馬が開催されたことから「桜馬場」と呼ばれていました。付近には桜楽軒という茶屋も設けられ、戦前には花見時に都会から多くの来遊社も訪れて、大いに賑わっていました。(公園案内版)