寺内公園
アップデート:2021/02/08
寺内公園は歴史と思い出を詰め込んだ公園で
地域の人たちのアイディアも詰め込んだ公園です。
遊具は無く歴史に浸る公園です。
この公園の一帯には、鎌倉時代の末から明治40年までお寺があり、地元では、このお寺の跡地を「寺内」と呼んでいたことが、公園名の由来です。ハナカイドウやヒメシャラなどの花木が多く植えられています。 (新宿区HP)
この「寺内公園」の一帯は、鎌倉時代の末から「行先寺」という寺が置かれていました。御本尊の「千手観音像」は、太田道灌、牛込氏はじめ多くの人々が信仰したと伝えられています。寺の門前には古くからの町屋「兵庫町」歴史とがあり、三代将軍家光が鷹狩りに来られるたびに、兵庫町の肴屋が肴を献上したことから「肴町」と呼ばれるようになりました。
江戸中期の天明八年(一七八八)、境内の東側が武家の住まいとして貸し出されるようになりました。この中に、貸地通行道(後の区道)という、人がやっとすれ違える細い路地がありました。安政四年(一八五七)頃、この一部が遊行の地となり神楽坂の花柳界が発祥したと伝えられています。明治四年(一八七一)には、行元寺と肴町を合わせて町名を「牛込肴町」となりました。(昭和二十六年からは「神楽坂五丁目」になっています。)
行元寺は、明治四十年(一九〇七)の区画整理の際、品川区西五反田に移転し、大正元年(一九一二)に大久保通りができました。地元では、行元寺の跡地を「寺内」と呼び、味わい深い路地のある粋な花柳街として、毘沙門さまの縁日とともに多くの人々に親しまれ、山の手随一の繁華街として賑わっていました。
文豪、夏目漱石の「硝子戸の中」大正四年作(一九一五)には、従兄の住む寺内でよく遊んでいた若き漱石の神楽坂での思い出話が出てきます。また、喜劇王・柳家金語楼と歌手。山下敬二郎の親子や女優・花柳小菊、俳優・勝新太郎、芸者歌手・神楽坂はん子などが寺内に住んでいました。このように多くの芸能人や文士に愛された「寺内」でもありました。
日本経済のバブル崩壊後、この一体は地上げをうけましたが、その後の高層マンション建設に伴って、区道が付け替えられ、この公園ができることになりました。公園内には、地域の人たちのまちへの思いやアイディアが多く盛り込まれています。
いつまでも忘れることのない歴史と由緒あるこの地の思い出をこの「寺内公園」に託し、末永く皆様の思い出の場、憩いの場として大切に護り育てましょう。(公園案内版から)